何が私と走ってきたSRX号なのか [旅の相棒 鉄馬SRX]
わが愛馬SRX号、ヤマハ SRX400、は転倒をきっかけにエンジンが焼き付いてしまい、また部品がもう供給されていないことから、不動車となってしまいました。これからの二輪生活をどうしていこうか、ぼんやりと考える日が続いています。
前回、取り得る手立てとして三つを挙げていましたが、もう一つあることを忘れていました。
1.中古のエンジンを見つけてもらって乗せ換えてもらう
1.5. 中古のSRX号を見つけて、エンジンを現SRX号に乗せ換えてもらう
2.現SRX号とはお別れして、中古のSRX号を見つけて、乗り換える
3.SRXを諦め、別の鉄馬に乗り換える
1.と2.のハイブリッドの1.5.という手段があるのを忘れていました。
ただし、前回述べたように、1.の目は殆ど無いとのことなので、実質、取り得る選択肢は、以下の三つに絞られます。
1.5. 中古のSRX号を見つけて、エンジンを現SRX号に乗せ換えてもらう
2.現SRX号とはお別れして、中古のSRX号を見つけて、乗り換える
3.SRXを諦め、別の鉄馬に乗り換える
ただ、1.5.の場合、中古のSRX号を見つける必要があるわけで、それならそのまま、2.として、新しく手に入れた中古のSRX号に乗ればいいんじゃないかと思うのですが、そこに素直に納得できない自分が居たりするのです。
やはり、これまで苦楽を共にしてきた現SRX号に再び乗りたいと思ってしまうのです。
ここでふと思うのは、何がわが愛馬SRX号を「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」たらしめているのでしょうかね。
エンジンでしょうか。
それだと、わが愛馬SRX号は、一度、エンジン(の一部であるシリンダーとピストン)を乗せ換えています。では、既に「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくなってしまっているのでしょうか。
そうではない気がします。
だからこそ、1.5.というエンジン乗せ換えをしてでも現SRX号に乗りたいと思っているのですし。
では、ハンドルやシートなど、直に触れる部分?
それも違いますよね、きっと。シートは貼り替えてしまっていますし。
修理してどこまで変えたら、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくなってしまうのでしょうかね。
エンジン乗せ換えて、タイヤも換えて、マフラーも換えて、タンクも換えて、それでも、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」と言ってもいいんですかね。
そうすると、残るのはフレームくらいですかね?
そこまでフレームに思い入れがあるかなあ。
そう考えていくと、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」に拘る必要はないのかな、と思うようになってきました。
これまで一緒に歩んできた思い出が、現SRX号を「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」たらしめているのではないかと思えるようになってきました。
だとしたら、新しいSRX号に乗ることになったとしても、それは「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」を失くしてしまうものではなく、それは心の中に居続けてくれて、「これから(苦)楽を共にすることになる新SRX号」と共存できるものなのではないか、そう思えるようになってきました。
と感傷に浸ってみたものの、きっと一度に全部変えてしまうとことが、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくしてしまうことなんでしょうね。
少しずつ変えていくなら、他の部品たちの集合体が、まだ「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」であって、そうして思い出を重ねていくにつれて新しい部品も「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」の一部になり、そうして古参の「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」だった部品が新しい部品に変わったとしても、前回変えた部品が既に「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」になっている、そういうことなんでしょうね。
新陳代謝を繰り返して、細胞が入れ替わっても、私は私、ということなのだなと。
なんだかスッキリしてしまいました。
前回、取り得る手立てとして三つを挙げていましたが、もう一つあることを忘れていました。
1.中古のエンジンを見つけてもらって乗せ換えてもらう
1.5. 中古のSRX号を見つけて、エンジンを現SRX号に乗せ換えてもらう
2.現SRX号とはお別れして、中古のSRX号を見つけて、乗り換える
3.SRXを諦め、別の鉄馬に乗り換える
1.と2.のハイブリッドの1.5.という手段があるのを忘れていました。
ただし、前回述べたように、1.の目は殆ど無いとのことなので、実質、取り得る選択肢は、以下の三つに絞られます。
1.5. 中古のSRX号を見つけて、エンジンを現SRX号に乗せ換えてもらう
2.現SRX号とはお別れして、中古のSRX号を見つけて、乗り換える
3.SRXを諦め、別の鉄馬に乗り換える
ただ、1.5.の場合、中古のSRX号を見つける必要があるわけで、それならそのまま、2.として、新しく手に入れた中古のSRX号に乗ればいいんじゃないかと思うのですが、そこに素直に納得できない自分が居たりするのです。
やはり、これまで苦楽を共にしてきた現SRX号に再び乗りたいと思ってしまうのです。
友人とツーリングに行った時の一コマ
ここでふと思うのは、何がわが愛馬SRX号を「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」たらしめているのでしょうかね。
エンジンでしょうか。
それだと、わが愛馬SRX号は、一度、エンジン(の一部であるシリンダーとピストン)を乗せ換えています。では、既に「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくなってしまっているのでしょうか。
そうではない気がします。
だからこそ、1.5.というエンジン乗せ換えをしてでも現SRX号に乗りたいと思っているのですし。
では、ハンドルやシートなど、直に触れる部分?
それも違いますよね、きっと。シートは貼り替えてしまっていますし。
修理してどこまで変えたら、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくなってしまうのでしょうかね。
エンジン乗せ換えて、タイヤも換えて、マフラーも換えて、タンクも換えて、それでも、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」と言ってもいいんですかね。
そうすると、残るのはフレームくらいですかね?
そこまでフレームに思い入れがあるかなあ。
そう考えていくと、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」に拘る必要はないのかな、と思うようになってきました。
これまで一緒に歩んできた思い出が、現SRX号を「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」たらしめているのではないかと思えるようになってきました。
だとしたら、新しいSRX号に乗ることになったとしても、それは「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」を失くしてしまうものではなく、それは心の中に居続けてくれて、「これから(苦)楽を共にすることになる新SRX号」と共存できるものなのではないか、そう思えるようになってきました。
と感傷に浸ってみたものの、きっと一度に全部変えてしまうとことが、「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」ではなくしてしまうことなんでしょうね。
少しずつ変えていくなら、他の部品たちの集合体が、まだ「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」であって、そうして思い出を重ねていくにつれて新しい部品も「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」の一部になり、そうして古参の「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」だった部品が新しい部品に変わったとしても、前回変えた部品が既に「これまで苦楽を共にしてきた現SRX号」になっている、そういうことなんでしょうね。
新陳代謝を繰り返して、細胞が入れ替わっても、私は私、ということなのだなと。
なんだかスッキリしてしまいました。